2010年9月20日月曜日

踊り続ける中で――生命のつながりが見える

 きびしい暑さも一段落して、ようやく涼しげな風とともに秋の虫の声が聴かれるようになりました。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。




  ぼくの秘密の場所の一つは海にある。
  浜辺で鳥や犬、人の足跡をトラッキングし、海流や潮の道、風の流れを読んで、魚の動きを観察する。

 先日、早朝に秘密の場所へ行くと、海面が泡だっている。最初はブロー、つまり強めの風が吹いているのだと思ったが、海の中まで入って見てみると、小さな青い色をしたプランクトンがたくさん浮遊していた。海面下をよく観察してみると、普段はコンパクトに収納されている小さな口を、最大限まで大きく広げながら泳ぐアジの群れが、海面で懸命にプランクトンを捕食している。1匹の大きさは30センチほどだ。よく見ると、それよりも小型のイワシの群れもいる。
 しばらく、海中に立って眺めていたが、アジはぼくのすぐそばに来るまで、人間がそこにいることがわからないみたいだ。30センチほどのところで気づいて、急激に小さな波を立てながら一斉にUターンしていく。
 先史時代の技術を使い、陸上と同じく、海でも気配を静める。波に揺られて、海草か浮きにでもなったかのように自分のベースラインを海と同化させる。視野を広くとって、魚や海中を凝視するようなことはしない。
 しばらく、海の中で捕食する魚の群れを観察していた。

 浜辺に座って、沖を眺めながら、海や海岸、周りの地形、後ろの山、沖に見える富士山、江ノ島、伊豆半島などを、五感を総動員して見て、聴いて、感じる。すべてがつながって見えてくる。山の息吹、猛禽の羽ばたきや鳴き声、魚群の泳ぎ、海流、細かい潮の流れ、海面を吹き渡る風、うねり、波、東の空、南の空、北の空、西の空、雲、そして天高く存在する宇宙……。
 そうして見ていると、沖の方で大きな水しぶきが上がっているのを、周辺視野でとらえることができた。何だろう。そう思って、その場所に意識を集中すると、何メートルかはあるようなグレーの大きな生き物が2体泳いでいる姿を見ることができた。海面に全体が現れないのではっきりしないけど、おそらくイルカがアジやイワシを追いかけてビーチ近くまでやって来たのだろう。
 相模湾にはイルカやクジラ類が何種類か生息している。ハワイなどでは野生のイルカと一緒に泳いで、この海では子どもの頃から泳ぎ回っているけど、今まで、ここで自分の目で野生イルカ類と遭遇しことはなかった。

 朝、海で散歩をして、日の光を浴びて、太陽の暖かさを感じ、砂浜で風に吹かれ、静かに座って、一日をスタートさせる……。自然界のリズムに自分がスムースに呼応するようで、とてもバランスがいいスタートを切ることができる気がする。
 同じように、夕暮れ時に、水辺線に日が暮れなずむ様(さま)を、浜辺に座り静かに眺めていると、不思議に気持ちが安らいで、一日が終わっていくことが実感としてとらえることができるような気がする。
 古来から、世界各地に生きる先住民は、太陽をとても大切にとらえていた。それは、こむずかしい神や観念的な宗教とは、あまりにダイレクトだという意味で一段異なる存在なのではないかと思う。
 冬の夜に、近代装備や寝袋などを持たないで、鳥や動物たちのように山中で一晩過ごしてみたらよく分かることだと思う。寒さに凍てつく長い夜を、震えながら過ごしていると、朝日が昇って気温がぐんぐん上昇していくことにこの上ない感謝や畏敬の念を感じるはずだ。また、野生の鳥や動物たちがどんなに強くたくましいか。

 先日、浜辺で夕暮れを見送り、座っていると、浜の端にやぐらが組まれ、ぼんぼり提灯がいくつも提げられて、和太鼓のリズムが聞こえてきた。ドンドンドン、ドドンドドン、カラカッカ……ドドンドドン、ドンドンドン、カラカッカ……。
 興をそそられて、浜づたいに近づいてみると、そこには浴衣姿や、ビーチサンダルに半ズボン姿の地元の皆さんが大勢集まってきていて、思いおもいに手振り足ぶりで、提灯の薄明かりにぼんやりと照らされた中で踊りに興じている姿があった。場所柄、基地のアメリカ人兵士たちが踊りの輪の中に混ざっている姿もあった。
 現代まで続く盆踊りは、平安時代に始められた仏教行事である、念仏踊りというものが、盂蘭盆(うらぼん)と結びつき、精霊を迎え、死者を供養する行事になっていったと言われている。
 夜の浜辺で繰り広げられているこの光景は、この地で太古から豊漁や豊穣を祝い、プリミティブな太鼓のリズムを奏でて踊ることにより、精霊を迎え、死者を祭っている姿に他ならない。
 そして、これは日本の各地で行われているものであり、世界中で行われているものでもあるのだ。なぜなら、ドドンドドン、ドンドンドン、カラカッカ……ドドンドドン、ドンドンドン、カラカッカ……。は、この日本という地のリズムだが、これが、アフリカになれば、もっと激しいドラムやジャンベなどになったり、ブラジルではサンバ、バリではガムランなど、各地でそれぞれの地のリズムで豊作を祝い、命の連鎖や自然界の実りに感謝して、神々と交信をはかり祈りを捧げてきたのだ。

 自分たちの祖先は、自然界の営みに自分たちを組み込み、調和し、環境を理解することによって、食物や暮らしを手に入れきたのだ。しかし、先祖が山や海の幸を命がけで探し回って手に入れていた時代から、世の中の技術はずいぶんと進歩した。
 コンビニエンスストアで24時間食べ物が手に入り、人がいないような辺鄙な山奥でも、寒くても暑くても自動販売機ではちょうどいい温度の飲み物が売られている。パソコンや携帯電話が普及し、インターネットで世界中とつながり、グローバル化によって、ロシアやアフリカに居てもニューヨークや東京の食材や衣料品を取り寄せることも可能になった。もちろん逆のことも可能になった。
 でも考えてみると、こんなに便利な世の中になっても、自分たちは自然のことをよく理解せずに、太古の昔から現在の自分に至るまで、恩恵を与え続けてくれているはずの、環境そのものを破壊する一方なのはなぜなのだろうか。
 工業化の進展や自動車の普及に伴う大気汚染、酸性雨、工業排水や生活排水などによる水質汚染・土壌汚染、フロンガスの排出によるオゾン層破壊、二酸化炭素等の温室効果ガスの放出などによる地球温暖化・海面上昇・凍土融解、開発にともなう、生物多様性の減退・生態系の破壊自然への影響を考えない土地の開発、植林を考慮しない大規模な森林の伐採……。

 ぼくたちは、いったい何を目指して、どこへと向かっているのだろう。宇宙自然界の営みは、たゆまず常に流れ続けている。変わってしまったのは何だろう。人の心か……。
 薄明かりの、ぼんぼり提灯の明かりに照らされ、盆踊りの太鼓のリズムがいつになく幻想的に感じられる。昼間の熱い日差しに焼かれた砂浜の熱気の中でみんな踊り続けていた。


 後日、地元に詳しい知り合いにアジの大群が海面にたくさんいた話をすると、その日、江ノ島あたりではそのアジの大群を追って珍しくサメが入ってきていたという。ぼくがいつもいる湘南の浜と、江ノ島は距離にして4、5キロほどしか離れていない。



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