2010年8月10日火曜日

2400年前の世界を感じる――弥生前期から続いている足跡

もうすぐ週末。今週こそは、最近、仕事で休みがちな武術の稽古に行って、しっかり原稿を執筆して、月曜日には完璧な原稿をきっちり入稿しよう……そう思っていた。しかし、ミッションは突然、深夜にやってきた。

奈良県で2400年前の弥生人の足跡や狩猟、暮らしの痕跡が発見されたというのだ。他の仕事をやりくりして、原稿をものすごいスピードで仕上げて、金曜日には東京駅から新幹線に乗って奈良に行くこととなった。今回は、ぼくの仕事のスピードこそ「光」号と号したいくらいのスピードだった。


現場は奈良県御所(ごせ)市。ぼくが持っているお気に入りの勾玉(まがたま)も確かこのあたりで出土したはず。土地柄、出土品は非常に多く見られる。いまだに解明されていない遺跡も出土したりする。


この地方では、古代の先住民が暮らしていたという言い伝えや痕跡も多い。縄文時代から弥生時代に移行するときに、大陸から渡ってきた人たちと縄張り争いがあったのかもしれない。


彼らは土蜘蛛(つちぐも)や葛(くず)と呼ばれる民族だった。いにしえの古文書によると、背が低く、がっちりとした体格で、手足が長い身体的特徴を持ち、穴の中に暮らしていたという。これは、そのまま縄文人にもあてはまる。また、土蜘蛛や葛は、アイヌやエミシなどのように、また別の人種なのかもしれない。彼らはみな、時の権力や朝廷に追われ、生活の拠点を移したりそのまま滅ぼされていった。

 自然界や動植物、世界そのものと調和することを忘れてしまった、現代を生きるぼくたちのコンビニエンスな価値観もそうだが、人同士が滅ぼし合う姿はなんとも悲しい。それも、おそらくは、お互いに自分の、あるいは自分の親兄弟や部族の繁栄を願ってのことだったのだ。ともに生きる道を選べなかったのかとも思う。

今年は、710年(和銅3年)に藤原京から平城京へ遷都されたことを受け「平城遷都1300年祭」として奈良で大々的にキャンペーンをやっているのはご存じの通り。不思議なスタイルのキャンペーンキャラクター「せんとくん」が描かれた団扇を、タクシーの運転手が汗でTシャツを肌に貼りつかせているぼくに、気の毒そうな顔で渡してくれた。


奈良出身者の話によれば、この地では古墳など当たり前のように暮らしに溶け込んでいるという。そこここに見えるこんもりとした小山は、たいてい古墳であるとのこと。この地方では、古墳は「御陵(ごりょう)さん」と、親しみと畏敬の念を持って呼ばれている。子どもの頃は、いくら古墳に入ったり、登りたくても「決して行ってはいけない」と、どこの家でも親から戒められていたそうだ。それはそうだろう。どこの国や部族でもお墓で遊んではいけないのだ。


その場所は、低い山波に囲まれ、平坦で開けた場所が続くこのあたり特有の盆地の特徴をよく表していた。山から川筋が伸びており、太古から湿潤な地形だったことが分かる。近くには大小の古墳や神社をはじめ、有名なヤマトタケル白鳥陵や葛城一言主神社などもある。


現場はすでに、橿原(かしはら)考古学研究所によって、痕跡に白いマーキングが施されて見やすく整理されていた。広々とした遺跡の端に立って見渡すと、2400年前の水田と森を一望することができた。

今回、見つかったのは、森林3千平方メートルと、水田1700平方メートル。洪水による、急激な土砂の堆積によって厚さ1・5メートルほどが埋まって、当時のまま閉じ込められた状態になり、埋没時の状況がそのまま残った。


つまり、2400年前の人たちが、狩猟や木材の伐採、植物の採集を行って暮らす森と、そこに隣接する当時の水田が、そのまま2010年の現代に姿をあらわしたということなのだ。


「田んぼ」は、現代の区画よりも小さい。およそ1坪(約180センチ×約180センチ)ほど。そのほかの形状は、現代の水田となんら変わっているところはないように見える。


水路と、そこにつづく通路に当時のまま、足跡が残っている。歩幅や足の開き方、歩調などから、水田を急ぐでもなく通常の速度で目的を持って移動している、身長130センチ~150センチほどの小柄な男性、あるいは女性であることがわかる。泥濘(ぬかるみ)を歩いたにしては沈み方が少なく、あまり体重は重くなかったように思える。特にマーキングはされていなかったが、そのほかにも2人ほどの足跡をぼくは見つけた。

田んぼから、幅2メートル、深さ60センチの水路を隔てた、かつての豊かな「森」では、何人もの人の足跡がいろんなサイズで残されており、さらにはイノシシだと思われる動物の足跡もつけられている。中には木の周りを回るように、つけられている人の足跡も残っている。これは、伐採、あるいは植物、木の実の採取を目的としたものだったのかもしれない。


森は原生林でなく2次林で、人の手によるものだという。ヤマグワ44本。ツバキ39本。カエデ21本。イヌガヤ12本。コクサギ10本。オニグルミ、カシ、エノキ各7本など22種以上あり、食用の木の実が稔る樹種が多い。人為的に割られたクルミの殻も見つかっている。縄文から続くこの頃も、当然ながら果樹の栽培を行っていたのだ。


また、驚くことにトチノキやカエデなどには伐採痕がはっきりと残っており、石斧(せきふ)が削り取ったであろう刃の角度までをはっきりと見ることができた。まるで「先週、家の柱に使うからちょっと伐ったんだよ」とでも言われそうな感じで切り株の痕は生々しくそこにあった。

また、太いエノキを火で焦がしながら石斧で伐採した痕跡も残っていた。火で焼くことによって木の強度を弱めて伐っていったと思われる。どの木も80センチほどの高さで伐採されていて、腰の高さで一番力が伝わる場所に石斧をふるって伐ったことが分かる。


周辺でも、弥生土器片やサヌカイト片(石器の破片)、人の足跡なども見つかり、木陰で活動していたらしい様子もうかがえる。ぼくが見た土器片にははっきりと縄文式らしき縄目が刻まれていた。また、地域間の交流があったことも土器の形状から分かった。中部地方からもたらされた搬入土器と呼ばれる土器も見つかっている。


砕かれた犬科動物の獣骨や石鏃(せきぞく=石製のヤジリ)も発見されており、ここで狩猟が行われていたことが分かる。タヌキなどを獲って、木立の中で火を起こして焼き、熱く焼けたタヌキ肉などを食べていたのかもしれないと思うとワクワクしてくる。


ぼくは、遠く北米大陸に暮らしたネイティブアメリカンの狩猟採集技術を学んでいる。その技術のおかげで、足跡の主がおよそどのようなことをしたのかが、少し理解することが可能だ。今のぼくには、ほんの少ししか分からないが、師匠たちは彼らのそのときの気持ちや置かれている状況、その日の朝食や痕跡の主の顔つき、服装から食べ物の好みまで手に取るように分かるのだ。


おかげでぼくにも、ここで暮らした人たちに少しだけふれることができた。裸足、あるいは薄い履き物を履いた人が、木の周りを何回も、あるいは何人かで回りながら歩いた様子……。非常に洗練された鋭利な石斧を使って、太い木を伐採していたこと……。田んぼの中を行き来した姿……。小さく研ぎ澄まされた石のヤジリをつけた弓でイノシシやタヌキを狩ること……。一瞬、当時のままの彼らの姿が炎天で揺らぐ陽炎の彼方に見えたような気がした。

こうして、自分の生まれ育った土地で、遙かな昔に祖先が暮らした様子を、痕跡を見て理解することができるのはとても大きなことではないか思う。一説によると、縄文時代の祖先は、地続きだった遠くアメリカ大陸にまで歩いて渡り、彼の地に暮らしたとも言う。


世界中の先住民の技術は、細かなディテールの違いこそあれ、とてもよく似ている。アフリカや南米に暮らす先住民、ナナイ、アイヌやニブヒなどのアジアの民、そしてポリネシアやサモア、ハワイなどの海洋民族を見ても、自然を理解し、共に生きる方法を探り、実践しているように思える。それは、人が生きていく時に、自分以外の存在とコミュニケートせずには存在できないということが本質だからなのかもしれない。


もし、遺跡を解明しようとする考古学者の助けや、インディアンの技をぼくが知らなければ、そこはただの原っぱや現代の田んぼにしか見えず、現場に行ったとしても、痕跡も見いだせずに、何も感じずに通り過ぎるだけなのかもしれないと思うとぞっとする。


ぼくの学んでいる技術の根幹にあるものは、コミュニケーションだとぼくは理解している。風や雲の動きで天候を判じたり、鳥や獣の動きから遠くで起こっている事象を見いだし、星の位置から、自分の居場所を知って旅をする。足跡一つから、動物や人の気持ちをくみ取り、理解しようとする。そして、共に生きる道を探っていく生き方……。


縄文期から弥生期にさしかかる遺跡を歩きながら「自分たちは、どこかで道を間違えて歩いてきてしまったのかもしれない」とぼくは思った。すぐ隣にいる人にもメールでないと意志が伝えられない。楽しみはPCやゲーム。ヘッドフォンで聞く音楽。食事は透明なラップにくるまれたパック入りの便利なもの……。


便利なものを決して悪いとぼくは思わない。だけど、それを用いる人の意識がどんなことにつながっているのかと思う。自分の利益が最優先。意のままにならなければ、相手を傷つける。そして、他民族を滅ぼさんと争う……。


しかし、今から進路を変更することも可能なのだ。もう、土蜘蛛や葛の民が戻ってくることはないけれど、すぐ隣にいる人や、自然との共生を意識し、皆とコミュニケートしながら、共に生きる方法があるはずではないかと……。蝉時雨がふりしきる炎天の奈良でぼくは立ちつくしていた。