2011年3月29日火曜日

揺るぎなきもの

こんにちは。
みなさまお元気でしょうか。
毎日、どんな思いで過ごされていますか。
この間(かん)、震災に遭われた方々や失われたものの大きさを考えると、いろんな思いが去来します……。

ぼくたち、この島で生きる者は、遠い昔から数々の大きな地震や台風、津波に襲われてきました。いま一度、自分たちに本当に必要なものは何か。何を目指して歩んでいけばよいのかが問われているときなのかもしれません。

ぼくの祖母は、明治期に現在の福島県相馬で生まれた人でした。相馬藩士の娘であったようです。幼少の頃に亡くなったので、あまり記憶がないのですが、とてもやさしい人で、苦労をした人に似合わず白く繊細な手だったことを憶えています。

ぼくが学んでいる古武術流派のひとつに、仙台藩のものがあります。家伝には残っていませんが、もしかしたら曾祖父や親戚たちは学んでいたのかもしれません。


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以前に、九州を旅したときのこと、弥生時代から戦国期、江戸、明治に至るまでの史跡をまわったことがある。

地面に穴をうがち、太い柱を基礎として立てて、藁(わら)や茅(かや)などの植物を屋根に葺いて家をつくる。近くで田畑を耕し、米などの作物を育てる。時には山で狩りをして、海では魚を漁(すなど)る。そして、何軒か家が集まり、集落になると、周りには堀を作り、収穫した大切な備蓄食料としての作物を守る。

その構造は、農耕を始めた弥生時代の吉野ヶ里遺跡から、加藤清正が築いた熊本城まで基本的には変わっていない。

見てまわった中で、島原城下にある鉄砲町という、かつて島原藩の武士たちが暮らしていた町並みを見学した。武士と言っても、藩主や家老などの高級武士ではなく、下士階級が暮らした町並みと住居が今も残されている。

鉄砲町には、町を横切るように石造りの小さな水路が流れている。山の湧水を引いて、使えるようにしたものだ。

水路そばに建つ、保存されている小さな屋敷に入る。「猫の額ほどの」という言い方があるが、まさにそのような庭があり、水仙や梅が咲き、蜜柑や枇杷、柿などの樹木も植わっている。

家の中は、土間に竈(かまど)のある台所、控えの前室、庭に面した主人の書斎、他に2部屋があるばかりで、当然のことながら、こぢんまりとした質素な作りになっている。

だけど、書斎には違い棚や、整えられた作りの床の間があり、開け放たれた障子の向こうには、庭木を見ることができた。質素ながら美しい欄間(らんま)もあり、屋内での風の通り道も計算されているようで、思ったほど古い家特有の埃っぽさもない。

島原城が竣工したのは1624年ごろ寛永元年あたりだと言われている。自分が見ている家や庭木がすべて当時のままではないにせよ、390年近くも以前に設計されて建てられ、設(しつら)えられたものだと思うと、作った人、住んだ人、そして家を保存し残してくれている人たちの思いを感じて、胸にこみ上げてくるものがあった。

この家に住んだ人たちはもう生きてはいない。家を造った人や住んでいた人たちは、もちろん家を大切にして、長いながい間、代を重ね、手入れをし続けて住んでいたにちがいない。だからこそ、現代まで保存することも可能になったはずだ。だけど、この家に住んでいた人たちが本当に残したかったものや、伝えたかったことは、家屋敷そのものではなかったような気がする。

ここに残っている、間取りや佇まい、庭木の果樹、縁側の側に置かれた苔むした石臼があるからこそ、ぼくは遠い昔に暮らした人たちの面影を、まるでつい昨日まで、ここに武家の家族が暮らしていたかのように感じることができるのだけど……。

この島の、数百年も前の文化は、繰り返し起きる災害や戦争、また文化の流入によって、かなり多くの部分が消失してしまった。自分の学んでいる古武術でも、どの部分が後生に加えられたもので、どの部分が流派当初からあるもので、どこが本質なのかを見分けるのはとても難しい。でも、そこには間違いなく、それを創った人、支えてきた人たちの思いが必ずある。そこを見て、明日を生きることこそがとても大切なのではないだろうか。

本当に大切なものは何だろう。家財や洋服。土地。家。お金。それとも、それを入手するための利権……。どれもそうではないだろうと最近ぼくは思う。本当に大切なのは、だれしもが胸の中に持っているもので、形はないものなのかもしれない。

そして、それを養うことこそが、本当に鉄砲町の家で暮らした人たちが伝えたかったものではなかっただろうか。



かつて、ギリシャ哲学者がこんなことを言った。


 ――万物は流転す。自然界は絶えず変化している。そして変化しないもの、本質(ロゴス)がその背後にある



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今は、大上段に振りかぶった文明論を論じる時ではないかもしれません。でも、豊かな自然に恵まれたこの島に生きるぼくたちは、いまこそ本当にこの先どんな世界を目指してやっていくのかが問われているように思います。

ぼくの祖母が生まれた相馬市も、大きな被害を受けました。子孫として、復興に向け、力の続く限りやりたいと思います。そして、祖母をはじめ先祖の方々に何かを突きつけられているような気がしてなりません。

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◎タンサンの話


近所で炭酸水を買ってきました。うれしくなって冷蔵庫に入れました。風呂上がりや、仕事の合間にちょっとレモンなぞを絞ってタンサン飲むのがぼくの密かな楽しみなんです。コンビニエンスストアやスーパーマーケットで、最近ではペットボトルの水はほとんど売っていません。でも炭酸は人気がないのか、けっこうたくさんあるんです。そして、実は炭酸でご飯を炊くと美味しかったりするんですよ。





2011年2月3日木曜日

節分――豆を蒔くことの意味


こんばんは。今日は節分ですね。

いかがお過ごしですか。

ご家族で豆まきしたり、一人で壁を向いて、もぐもぐと恵方巻きにかぶりついたりしてますか? ぼくはお昼にいただきました。太巻き1本が昼食という、うれしいような、さみしいようなビミョーな感じでした。でも美味しかったのでよかったです。

今日は節分にあたりますね。節分とは、季節が始まる日(立春、立夏、立秋、立冬)の前日を指します。また、「季節を分ける」という意味もあります。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多いようですね。

豆まきは、各地方や神社、家系によって、それぞれしきたりや、方法がさまざまにあるようですが、基本的には季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられていて、それを払うための悪霊払いの行事というのが基本になっているようです。古来、節分の行事は宮中での年中行事でもありました。追儺(ついな)と言ったそうです。現在は宮中で行われているかどうか分かりませんが、この地に暮らす人々にとって、大切な日だということには変わりないように思います。

その内容は、大舎人(おおとねり=宮中で要人の雑務、護衛にあたった官人)が扮する方相氏(金色の目が4つ、頭に角が生えている鬼のような姿をした神さま。人間の目には見えない悪鬼を退散させる鬼神)が、右手に矛、左手に盾をもって鬼払いをするという儀式でした。平安神宮などでは現在も行われているようです。

日本では、このような歴史を持つ豆まきですが、ネイティブ・アメリカンや古代ハワイでも、とても似たような邪気を払う方法というのが伝わっています。ネイティブ・アメリカンはセージの葉や、タバコの葉を燃やして、煙を浄化につかいます。古代ハワイでは、塩や海水、ティーリーフを使って浄化をします。世界中どこでも、浄化するということは、とても大切なことだったようです。

今回は、日本の地に古来から伝わる、邪気を払う浄化の方法としての、豆まきをお伝えしましょう。


◎豆まき

・ひとつまみの粗塩と一緒に、小鍋などで豆を煎る
・煙が上がってくるのでかまわずに炒り続ける。この煙も浄化作用がある
・包丁で十字を切る
・「払いたまえ」と唱えながら豆を煎っている鍋の中に刃先を入れて、横に払う
・「清めたまえ」と唱えながら豆を煎っている鍋の中に刃先を入れて、縦に払う。
・真っ黒の豆を、升などの四角い入れ物に入れる(ぼくは折り紙で四角い箱を折ります)
・窓、ドアは全開にして、換気扇をつけておく(ここは大切です)
・手の甲は下に向け、天井に向かって豆を撒く
・かけ声は「福は内。鬼は外」
・すべての部屋に捲き終わったら、箒ですべての豆を玄関から吐き出す


 これが、日本に伝わる、浄化方法のひとつです。

特に節分でなくてもかまいません。家の中やお部屋が、なんとなくどんよりしたり、いやな感じがするようになったと感じたらやってみてください。
豆まきをすると、不思議とけっこうすっきりしたりします。



・写真 上 お正月の黒豆ではありません。大豆です
      下 小さなダッチオーブンのスキレットで煎ってみました







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2011年1月31日月曜日

Oneness--「ひとつ」であることを学ぶ

こんにちは。ごぶさたしております。


みなさまいかがお過ごしでしょうか。
毎日寒いのでお風邪などめしてらっしゃらないでしょうか。

ぼくは、今月半ばに花粉症予防の好転反応から、そのまま風邪をひきました。

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さて先日は、ジョン万次郎こと中浜万次郎の誕生日でありました。つまり、ワタクシの誕生日であったわけです。というわけで、 先日は羽織袴に、てきとうチョンマゲで葉山・日陰茶屋へ行ってまいりました。羽織もさることながら袴をつけるとやはり気持ちがしゃきっとします。何よりも、着物姿にお店の方がとても喜んでくれたので嬉しかったです。チョンマゲは本意ではないのですけど、仕事のせいもあり、髪が伸び放題になってしまったので(笑

このブログでは、あまり書くことはないのですが、戦国時代から脈々と受け継がれる古武術を稽古していることもあり、実は着物がけっこう好きだったりします。今は仕事で、ちょっとお休み中なので、早くまた再開したいと思っています。

日影茶屋は、350年前、江戸初期から続く老舗です。夏目漱石も美味しい料理目当てに通ったという由緒ある料亭ですね。サザンの歌にも出てきたりしますけど。

明治、大正期に建てられた家屋やお庭は、とても風情がありました。食事は旬の地魚を中心に供していただき、日本という国の、この地で暮らす先人たちの繊細な、「和」の心を感じるおもてなしは、目にも舌にもうれしい時間を過ごすことができました。

この、日本という島に暮らす人たちは、本来、とてもセンシティブで、特別な感覚を、この島で繰り広げられる四季や、多様性の中で生活することにより、身につけてきたのだと、あらためて考えさせられました。

誕生日に際して、ぼくは、さらなるワンネスの追求をしたいと思いました。 簡単に言うと、動植物や自然界の様子を観察して、命のやりとりや、それぞれのつながりを、つぶさに観察することによって学ぶというか……。ワンネスは、英語でonenessということで、日本語に訳すと「ひとつ」「一体」「一体観」ということになります。

たとえば、仙台の「富沢遺跡保存館(地底の森ミュージアム)」が、2万年前の植生を再現した屋外自然観察施設「氷河期の森」で、害虫のアブラムシを駆除せずに、その卵の位置と積雪の深さの関係を調べているということですが、カマキリが積雪より高い位置に卵を産みつけるという俗説は有名です。保存館職員によると、昨冬からの調査で、アブラムシにも同じ傾向がありそうだというのが分かってきたそうです。

それで、調べているのは、広葉樹ハンノキに産み付けられたオオアブラムシの卵。卵の位置は、昨冬が高さ1メートル10センチ前後、今冬は60センチ前後。「氷河期の森」の積雪は最も深いときで昨冬は25センチ(昨年3月10日ごろ)だったのに対し、今冬は今月9日と同15日の1センチ前後にとどまり、卵の高さと積雪の関係は今のところ、「カマキリの俗説」の通りになっているというのです。

また、海でイワシの群れを追うイルカやサメは、群れの中の一番弱いものを食べます。強い者は逃げてしまうので食べることはできません。それは、とても理にかなった状態だということです。強い者が残り、弱い者から食べられていくことで、命の連鎖ができあがっている。

インディアンや、古代ハワイアン、アボリジニー、マオリなど、先住民は、食べ物を狩猟採取するときは、根こそぎ取るようなことは絶対にしません。必ず、その時に食べる分だけ取り、明日へ環境づくりや命をつなげるのです。そのことを何十万年も前から続けていたのです。

こういったことから、この湘南の地で、ワンネスを調べ、実践していこうと誕生日に際して思いました。


どうか皆さま、お時間がゆるせばおつき合いくださいませ。